【小さな愛】一話 アキとユリ
我々はこの村を愛している。
豊かではないが、自然に恵まれ村人たちも働き者だ。
私自身、80年前にこの地に生まれ落ちてから、村のために一生懸命働いてきた。大きな諍いもない平和な村だ。
しかし、村の平穏が崩れ去る瞬間はあっけなく訪れた。それは、まず二人の子どもが迷い込んできたことから始まった。
ーーー
アキは無我夢中で森の中を駆けていた。
顔や腕に鋭い枝が傷を作っても怯むことなく進んでいく。
長い間走りすぎて肺がパンクしそうだ。口から幾度も吐き出される白い息は闇の中に蒸発する。
どのくらい走っているだろうか。同じような景色の中を進んできたため時間の感覚が狂っている。一時間か二時間か、あるいは10分くらいにも感じる。もうすぐだ。きっともうすぐ森から抜けられるはずだ。
アキは周囲の物音に神経を研ぎ澄ませながらも、走る足を休めない。もっと遠く。もっと遠くへ。不安と焦燥に泣きそうになりながらも必死に希望を探していた。
「きゃあ!」
ふと、左手が軽くなる。振り向くと手をつないでいたユリが木の根に足をとられて転んでいた。
ユリはそのまま勢いあまって岩にお腹を思い切りぶつけた。体の奥底まで響くような鈍い痛みに悶絶する。
「ユリ!」
アキはすぐにユリのもとへ駆け寄る。ユリは「うん、平気」と強がってみせるが口から少し血を吐いた。
「まだ走れる?」
ユリは頷いて立ち上がる。しかし、体がよろめいて尻もちをついてしまった。アキは自分たちが走ってきた方向に目をやる。暗闇の中で木々が葉を揺らしているが、それ以外に動くものは見当たらない。
少し休むべきか。
アキは思案する。ユリはおそらく肋骨を折っている。その状態で走り続けることは困難だ。痛みに耐えかねて声もだてしまうだろう。このまま進んでもリスクが大きすぎる。どこか隠れるのに適した場所はないか。
アキは辺りを見渡す。目には見えないが、かすかにゴウゴウと風の音がする。近くに洞窟があるに違いない。アキはユリの手をとり、負担をかけないようできるだけゆっくりと風の音のするほうへ歩いた。しばらく歩いているとやはり洞窟があった。二人は少し足早に洞窟の中に入った。
キキキキ!とコウモリが二羽ユリの顔をかすめて外へ出ていった。アキが頭をなでて安心させる。
洞窟の中は思ったよりも狭く、10メートルほどしかなかった。二人は適当な場所へ腰をおろし、先程までエンジンがフル稼働していた体を休めた。
「ねえ、私たちどうなるのかな?」
ユリは苦しそうな声でアキに聞いた。アキは「わからない」とだけ答えた。
それから幾ばくかの時が流れた。ユリは疲れ切って眠っている。アキも猛烈な睡魔に襲われていたが、生存本能がそれに抗っていた。ふと、草がこすれる音が聞こえた。
アキは耳を澄ます。また草がこすれる音がした。間違いない、なにものかがこちらへ近づいてきている。
この洞窟をねぐらにしている獣か、あるいは・・・・
アキは音が近づくにつれ、その正体が人間であることに気づいた。目を凝らすと、何かがキラリと暗闇に光った。
あれは、あれは、あいつらだ!
「ユリ!おきろ!あいつらだ!」
アキはユリの体を強く揺さぶる。ユリは事態を察知したのかすぐに飛び起きる。しかし、同時に激痛に襲われ大きな声を上げてしまった。足音が一瞬止まる。そしてこちらへまっすぐ進んでくるのがわかった。ひとりじゃない。何人もいる。これは逃げ切れない。そう判断したアキはユリを洞窟へ残し外へ飛び出していった。
洞窟の外へ出て冷たい風が顔を横切ったとき、暗闇からいくつもの銃弾がアキの体を貫通した。何者かがアキの頭を踏みつける。頭蓋骨がミシミシと悲鳴をあげる。全身の痛みに悶絶しながら見上げると、軍服を着た男と目があった。右目に傷をもつ男だった。
「手こずらせやがって」
男はそう言うとアキの体にさらに数発銃弾を打ち込んだ。
なんで、なんでこんなことに。僕らがなにをしたっていうんだ。
視界がだんだん遠のいていく。ここで死ぬんだ。アキは妙に体が暖かくなるのを感じた。まるで毛布にくるまれたかのような安心感があった。ああ、天国へいくのかな。アキは洞窟に残したユリのことを想う。ごめん、ごめん。僕が不甲斐ないばかりに。どうかこいつらに見つからないでくれ。体中の力が抜ける。まぶたが落ちて視界が真っ暗になる寸前、アキは自分のもとにかけよるユリの姿を見た。ああ、なんで来たんだユリ。そして薄れゆく意識の中で、最後の銃声が鳴り響くのを聞いた。
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「おーい!朝だよ!起きな!」
いつものようにジュリおばさんの声で目が覚めた。なんだか悪い夢を見ていたようだ。全身にびっしりと汗をかいている。窓の外をみる。外はすっかり朝になっていた。
「はーい!すぐ行くよ」
ベッドから起きて少し布団を整え、あくびをしながら階段を降りる。焼き立てのクロワッサンの甘い香りがする。ベーコンの焼ける音も聞こえる。すっかりお腹がすいてしまった。少し駆け足でリビングに行く。
「おう、おはよう。よく眠れたか?」
ジョゼフおじさんは立派にたくわえたヒゲを揺らしながらコーヒーをすすった。
「うん、まぁね」
「さあさ、冷めないうちにさっさと食べな!うん?あれあの子はまだ起きてないのかい?」
「そうみたいだね」
「まったく、しょうがない子だね!早く起こしておいで!」
ジュリおばさんの威勢のよい声に押されて二階へ上がる。まだ閉まっているドアをノックして中へはいる。
「おはよう、もう朝だよ。ジュリおばさんが怒らないうちに朝食を食べよう」
「うーん。まだ眠いよー」
「僕だって昨日あまり寝付けなかったんだ。でも、わかるでしょ?ジュリおばさんを怒らせたら面倒だ」
「わかったよー」
「さぁ、朝食を食べるよ。ユリ」